江戸初期、津藩・藤堂家の下屋敷に仕えていた初代・伊藤伊兵衛が植木屋を始めたのが最初とされ、明暦2年(1656)に薩摩から運ばれた「キリシマツツジ」の栽培に成功し「ツツジは染井」、「キリシマ伊兵衛」と呼ばれるまでになります。
ここ染井村周辺には、柳沢家下屋敷(現・六義園)、藤堂家・建部家下屋敷(現・染井霊園)、前田家下屋敷(板橋区加賀町)などがあり、植木屋の需要が高かったのが園芸が盛んになった要因なのだそうです。
享保12年(1727)、伊藤伊兵衛政武の代には、八代将軍吉宗が伊兵衛の芸戸園(植木園)を訪れて、キリシマツツジなど二十九種の草木を買い求めたという記録が残されているとのこと。
江戸の町に植木屋が増え始めたのは、明暦の大火(1657年)後のことで、町の復興途上において起きた造園ブームによって、植木の需要が発生したからである。染井の伊藤伊兵衛は、「霧島屋」と名乗っていて、江戸時代の初期(十七世紀中頃から十八世紀中頃まで)の園芸界をリードした人物と言える。伊藤伊兵衛に注目するのは、単に彼が植物に深い造詣を持っていただけでなく、その時々の流行を的確に把握したり、また、それらを分析してビジネスとして成立させる能力に長けていたからである。
なお、伊藤家では、主が変わっても代々「伊兵衛」を名乗り、受け継がれたようで、園芸に関わる重要人物として、歴史上、度々名前が登場する。
江戸時代前期の園芸家。
江戸染井(そめい)村(東京都豊島区)で植木屋をいとなむ。
・Kinshumakura(錦繍枕) published in 1692
・Kadan-jikinsho(花壇地錦抄) published in 1695
・Kusabana-ezenshu(草花絵前集) published in 1699.
江戸時代の植木屋。
江戸の北、染井村(現,豊島区駒込)で、数代にわたって園芸をいとなむ。
一家は造園、花卉(かき)栽培についての見識技量にすぐれ,当時流行した園芸植物の種類を図説記載した多くの著作を残した。
・Zouho-jikinsho(増補地錦抄) published in 1710
・Koueki-jikinsho(広益地錦抄) published in 1719
・Jikinsho-huroku(地錦抄付録) published in 1733
伊藤伊兵衛の分家筋にあたる伊藤小右衛門の五代目から、文化2(1805) 年に分家。代々重兵衛を名乗る。
住所は東京府巣鴨町上駒込染井835番地 常春園と『櫻草名鑑』に載っています。
昭和15年11月1日発行『農業世界十一月号付録 桜草の作り方』『上原梓・佐々木尚友 共著 栽培秘訣 桜草の作り方』(博文館)19ページに「染井墓地脇に住み、大地主でありまして、云々。」と書かれていますので現在の染井稲荷神社、染井西福寺前の駒込フラットや桜の里公園辺りです。
日本郵船地区は、伊藤一族の分家筋にあたる伊藤小右衛門・重兵衛家の敷地にあたると思われます。
年号が平成に改まる直前の昭和63(1988)年12 月、駒込六丁目の日本郵船地区(現在の駒込フラット)で発掘調査が始まりました。
調査期間中に昭和天皇崩御の報があり、一時作業がストップしたこともあったそうです。
その当時すでに市街化していた豊島区では、区内に遺跡が残されている可能性がほとんど考えられていませんでした。
しかし同年夏の試掘調査で江戸時代の痕跡が発見されたことにより、「駒込
六丁目遺跡」として発掘調査を行なうことになったのです。
その調査では、江戸時代の「植栽痕」(しょくさいこん)や「植木鉢」が調査の対象となり、現在に続く遺跡研究の基礎が形作られました。
その後の多くの調査によって旧石器時代から近代に至る様々な時代の遺構や遺物が駒込一帯に包蔵(ほうぞう)されていることがわかり、今ではより広範囲を占める「染井遺跡」という新たな遺跡として、広く知られた遺跡となりました。
植木職の2代重兵衛をつぐ。
江戸出身。屋号は常春園。
・Sakurasou-nayosehikae (桜草名寄控) published in 1860
1855-1916 明治時代の園芸家。
安政2年10月生まれ。明治5年東京駒込の植木職の4代重兵衛をつぐ。
サクラソウの研究,品種改良で名だかく,「桜草銘鑑」をあらわした。10年,14年,23年の内国勧業博覧会に出品し受賞。
31年巣鴨町長となる。大正5年8月死去。62歳。江戸出身。幼名は常太郎。屋号は常春園。
・Sakurasou-meikan (桜草銘鑑) published in 1888
・Sakurasou-meikan-juui(桜草銘鑑拾遺) published in 1899
・Sakurasou-meikan(桜草銘鑑) published in 1907