伊藤家と渋沢家について|さくら 日本文化体験教室 京都

伊藤家と渋沢家について

渋沢栄一

伊藤家の墓は、東京のホテル・オ-クラとアメリカ大使館の後ろにある小さい寺「林誓寺」である。
豪商として有名だった伊藤八兵衛の墓は、幕府に特別に許されていたという特別な傘のある墓であった。

伊藤家と渋沢家にまつわる歴史

伊藤 八兵衛

伊藤 八兵衛/Hachibei Ito

武蔵国川越の小ヶ谷村(現埼玉県川越市小ヶ谷)に、豪農・内田善蔵の長男として生まれた。
末弟の米三郎(後の淡島椿岳)と2人で川越を発ち江戸に出て、小石川伝通院前の伊勢屋長兵衛方で奉公する。
伊勢屋長兵衛は「伊勢長」(いせちょう)という江戸きっての質商であった。八兵衛はそこで頭角を現わし、伊勢屋の一族であり「京橋十人衆」と謳われた幕府の大御用商人である伊藤家の婿養子となる。
これを「天下の大富豪」と仰がれるようにしたのは八兵衛の努力・才覚であった。
八兵衛は本所の油堀(現・江東区佐賀[2])に油会所(油仲間寄合所)を建て、水戸藩の名義で金穀その他の運上を扱うなど急成長をし、その成功は幕末に頂巓に達し、江戸一の大富限者として第一に指を折られた。
元治元年(1864年)、水戸藩の天狗党が旗上げした際、八兵衛は後楽園に呼び出され、小判5万両の賦金を命ぜられると、小判5万両の才覚は難しいが二分金なら3万両を御用立て申しましょうと答えて、即座に3万両を出したと言われる。
明治維新の時にも、三井の献金は3万両だったが、八兵衛は5万両を献上した。
また、70万両の古金銀を石の蓋匣に入れて地中に埋蔵したと言われる。
明治時代の雑誌「太陽」の創刊号に「伊藤八兵衛伝」という記事が出るほどであった。

渋沢 兼子

渋沢 兼子/Kanako Shibusawa

新一万円紙幣の肖像にもなることで話題の渋沢栄一の美人妻が、こちら渋沢兼子(しぶさわ かねこ)です。
豪商・伊藤八兵衛の次女で、先妻・千代の死後、後妻として1883(明治16)年に結婚しました。
渋沢は、尊王攘夷の思想の影響を受け、一橋(徳川)慶喜に仕えた後、慶喜の実弟で水戸藩主の徳川昭武に随行してパリの万国博覧会を見学するなど、欧米の先進諸国の知見を直に学びます。
その後、大蔵省を経て第一国立銀行の頭取を務めながら、多くの民間企業などの創設や育成に尽力しました。
兼子は、夫婦で渡米してルーズベルト大統領と会見したり、渋沢が団長となって国内6都市の商工会議所を中心とした50名を率いてアメリカを訪問した「渡米実業団」の一員として同行したりと、夫を積極的にサポート。
また、鹿鳴館ではバザーなどの慈善活動にも協力したそうです。
近代日本の経済発展の礎を築いた渋沢栄一。
日本社会に新たな価値観を取り入れ、変革をもたらした背景には、共に第一線で活躍した兼子の支えが大きかったのではないでしょうか。

長谷川時雨

明治美人伝(青空文庫)

長谷川時雨/Shigure Hasegawa

 長者とは——ただ富があるばかりの名称ではない。渋沢男爵こそ、長者の相をも人柄をも円満に具備した人だが、兼子夫人も若きおりは美人の名が高かった。 彼女が渋沢氏の家の人となるときに涙ぐましい話がある。
それは、なさぬ仲の先妻の子供があったからのなんのというのではない。深川-油堀《あぶらぼり》の伊勢八という資産家の娘に生れた兼子の浮き沈みである。
 油堀は問屋町で、伊勢八は伊藤八兵衛という水戸侯の金子御用達《きんすごようたし》であった。伊勢屋八兵衛の名は、横浜に名高かった天下の糸平と比べられて、米相場にも洋銀《ドル》相場にも威をふるったものであった。 兼子は十二人の子女の一人で、十八のおり江州《ごうしゅう》から婿《むこ》を呼びむかえた。かくて十年、家附きの娘は気兼もなく、娘時代と同様、物見遊山《ものみゆさん》に過していたが、 傾《かたむ》く時にはさしもの家も一たまりもなく、僅《わず》かの手違《てちが》いから没落してしまった。 婿になった人も子まであるに、近江《おうみ》へ帰されてしまった。(そのころ明治十三年ごろか?) 市中は大コレラが流行していて、いやが上にも没落の人の心をふるえさせた。
 彼女は逢《あ》う人ごとに芸妓になりたいと頼んだのであった「大好きな芸妓になりたい」そういう言葉の裏には、どれほどの涙が秘められていたであろう。 すこしでも家のものに余裕を与えたいと思うこころと、身をくだすせつなさをかくして、きかぬ気から、「好きだからなりたい」といって、きく人の心をいためない用心をしてまで身を金にかえようとしていた。 両国のすしやという口入《くちい》れ宿は、そうした事の世話をするからと頼んでくれたものがあった。すると口入宿では妾《めかけ》の口ではどうだといって来た。
 妾というのならばどうしても嫌《いや》だと、口入れを散々-手古摺《てこず》らした。 零落《おちぶ》れても気位《きぐらい》をおとさなかった彼女は、渋沢家では夫人がコレラでなくなって困っているからというので、後の事を引受けることになって連れてゆかれた。 その家が以前の我家《わがや》——倒産した油堀の伊勢八のあとであろうとは——彼女は目くらめく心地で台所の敷居を踏んだ。
 彼女はいま財界になくてならぬ大名士《だいめいし》の、時めく男爵夫人である。 飛鳥山《あすかやま》の別荘に起臥《おきふ》しされているが、深川の本宅は、思出の多い、彼女の一生の振出しの家である。

注釈

「渋沢男爵」位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵
「深川油堀」現在の東京都江東区佐賀二丁目、福住二丁目、深川一・二丁目あたり
「水戸侯の金子御用達」伊藤八兵衛の実弟の淡島椿岳は、小林城三という名の水戸藩の御家人
「十二人の子女の一人」兼子は、次女
「江州」近江 (おうみ) 国で今の滋賀県