伊藤家の墓は、東京のホテル・オ-クラとアメリカ大使館の後ろにある小さい寺「林誓寺」である。
豪商として有名だった伊藤八兵衛の墓は、幕府に特別に許されていたという特別な傘のある墓であった。
He was born as the first son of a wealthy farmer, Zenzo Uchida in Ogaya village at Kawagoe in Musashi Province (Present Ogaya in Kawagoe city of Saitama prefecture).
At the time of the Meiji Restoration he donated to the government the amount of money of 50 thousand ryo (said to be about several hundred million yen) while the Mitsui did 30 thousand ryo. It is also said that he buried a stone jar containing 700 thousand ryo of old gold and silver coins.
Yuki, his eldest daughter, was the wife of Count Takanashi.
Kaneko, his second daughter, was the wife of Eiichi Shibusawa, a Minister of Foreign Affairs.
Kiyoko, his third daughter, was the wife of Kazusuke Sasaki, a trading merchant.
Nobuko, his fourth daughter, was the wife of Count Minagawa.
新一万円紙幣の肖像にもなることで話題の渋沢栄一の美人妻が、こちら渋沢兼子(しぶさわ かねこ)です。
豪商・伊藤八兵衛の次女で、先妻・千代の死後、後妻として1883(明治16)年に結婚しました。
渋沢は、尊王攘夷の思想の影響を受け、一橋(徳川)慶喜に仕えた後、慶喜の実弟で水戸藩主の徳川昭武に随行してパリの万国博覧会を見学するなど、欧米の先進諸国の知見を直に学びます。
その後、大蔵省を経て第一国立銀行の頭取を務めながら、多くの民間企業などの創設や育成に尽力しました。
兼子は、夫婦で渡米してルーズベルト大統領と会見したり、渋沢が団長となって国内6都市の商工会議所を中心とした50名を率いてアメリカを訪問した「渡米実業団」の一員として同行したりと、夫を積極的にサポート。
また、鹿鳴館ではバザーなどの慈善活動にも協力したそうです。
近代日本の経済発展の礎を築いた渋沢栄一。
日本社会に新たな価値観を取り入れ、変革をもたらした背景には、共に第一線で活躍した兼子の支えが大きかったのではないでしょうか。
長者とは——ただ富があるばかりの名称ではない。渋沢男爵こそ、長者の相をも人柄をも円満に具備した人だが、兼子夫人も若きおりは美人の名が高かった。
彼女が渋沢氏の家の人となるときに涙ぐましい話がある。
それは、なさぬ仲の先妻の子供があったからのなんのというのではない。深川-油堀《あぶらぼり》の伊勢八という資産家の娘に生れた兼子の浮き沈みである。
油堀は問屋町で、伊勢八は伊藤八兵衛という水戸侯の金子御用達《きんすごようたし》であった。伊勢屋八兵衛の名は、横浜に名高かった天下の糸平と比べられて、米相場にも洋銀《ドル》相場にも威をふるったものであった。
兼子は十二人の子女の一人で、十八のおり江州《ごうしゅう》から婿《むこ》を呼びむかえた。かくて十年、家附きの娘は気兼もなく、娘時代と同様、物見遊山《ものみゆさん》に過していたが、
傾《かたむ》く時にはさしもの家も一たまりもなく、僅《わず》かの手違《てちが》いから没落してしまった。
婿になった人も子まであるに、近江《おうみ》へ帰されてしまった。(そのころ明治十三年ごろか?)
市中は大コレラが流行していて、いやが上にも没落の人の心をふるえさせた。
彼女は逢《あ》う人ごとに芸妓になりたいと頼んだのであった「大好きな芸妓になりたい」そういう言葉の裏には、どれほどの涙が秘められていたであろう。
すこしでも家のものに余裕を与えたいと思うこころと、身をくだすせつなさをかくして、きかぬ気から、「好きだからなりたい」といって、きく人の心をいためない用心をしてまで身を金にかえようとしていた。
両国のすしやという口入《くちい》れ宿は、そうした事の世話をするからと頼んでくれたものがあった。すると口入宿では妾《めかけ》の口ではどうだといって来た。
妾というのならばどうしても嫌《いや》だと、口入れを散々-手古摺《てこず》らした。
零落《おちぶ》れても気位《きぐらい》をおとさなかった彼女は、渋沢家では夫人がコレラでなくなって困っているからというので、後の事を引受けることになって連れてゆかれた。
その家が以前の我家《わがや》——倒産した油堀の伊勢八のあとであろうとは——彼女は目くらめく心地で台所の敷居を踏んだ。
彼女はいま財界になくてならぬ大名士《だいめいし》の、時めく男爵夫人である。
飛鳥山《あすかやま》の別荘に起臥《おきふ》しされているが、深川の本宅は、思出の多い、彼女の一生の振出しの家である。
「渋沢男爵」位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵
「深川油堀」現在の東京都江東区佐賀二丁目、福住二丁目、深川一・二丁目あたり
「水戸侯の金子御用達」伊藤八兵衛の実弟の淡島椿岳は、小林城三という名の水戸藩の御家人
「十二人の子女の一人」兼子は、次女
「江州」近江 (おうみ) 国で今の滋賀県